「私のための主イエス」 08.06.22
                  ヨハネ10:1〜18

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために
命を捨てる」と主イエスは、おっしゃいます。私たちのことを、
ご自分の飼う羊のように見なしてこうおっしゃいます。
 旧約聖書にも、神さまを羊飼い、私たちを羊と見なしている
場面があります。詩編23編は、羊飼いなる神さまに守られ
導かれている私たちの幸いが、信仰の詩として歌い上げられて
います。
 旧約には、神さまのもとを離れて、自分の思うがままに
生きようとする羊も出てきます(イザヤ53章)。聖書は、神さまの
もとにとどまらないことを、罪であると告げます。羊飼いである
神さまのもとを離れて生きる時、人も荒野をさ迷うような生き方に
なります。そして、平安でなく不安が、愛し生かすことでなく奪い
傷つけあうことが起こります。そのようにして罪が罪を生み出して
いきます。羊飼いの元を離れてさ迷い、罪の泥沼にはまり込む
悲しい罪ある羊の姿は、私たちと無縁ではありません。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と
主イエスはおっしゃいます。門を通って入る囲いの中は、
どこでしょうか。本来の羊がいるべき場所ということからすれば、
神の国ということもできます。「私たちの国籍は天にある」と
聖書は告げますように、私たちは地上の旅を続けながら、
最後には本来いるべき神の国に戻るのです。しかし、羊飼いの
元を離れた羊は、罪ゆえに戻ることはできません。神さまの
もとを離れるという罪を犯した羊は、戻るべき所を失った羊
なのです。
 しかし、主イエスという門を通って、囲いに戻れるのです。
 主イエスという門には、私たちの罪を担って代わりに死なれた
十字架の門であるからです。
 「罪があっても、私を通って罪を赦され、あなたは神の国に
入れるものとなるよ」と語りかけてくださいます。
 さらにその門は、じっと待っている門ではありません。
 迷い出た羊を探す羊飼いのように、私たちの方に近づき
迫ってくる、愛の力に満ちた門であります。